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<title>シニア団塊世代の為の海外旅行ガイド・旅行記</title>
<link>http://www.ryokoguide.com/</link>
<description>シニア団塊世代に至るまで海外旅行で巡った国は１００ヶ国あまり、特に近頃のシニア
団塊世代の海外渡航熱はうなぎ上り。定年退職後、時間的経済的にも余裕のあるシニア
団塊世代ならでは味わえない海外旅行を期待するシニア団塊世代に答えて５０００人
以上の人達を世界各地へガイド･案内したプロガイドの一味違った海外旅行体験記













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<title>シニア団塊世代の為の海外旅行ガイド・旅行記</title>
<link>http://www.ryokoguide.com/archives/51319657.html</link>
<description>　定年退職したけれど

定年退職し、時間的にも経済的にも少し余裕が出来るようになった
シニア団塊世代の方が増えてきました。

このシニア団塊世代の方のために、この際ぜひ海外旅行へ出かけて
新しい生き方の方向を考えてみることをお勧めします。

私が生まれた...</description>
<dc:creator>hirokame1</dc:creator>
<dc:date>2009-08-20T22:39:28+09:00</dc:date>
<dc:subject>旅行ガイド</dc:subject>
<content:encoded><![CDATA[　<b>定年退職したけれど</b><br>
<br>
定年退職し、時間的にも経済的にも少し余裕が出来るようになった<br>
シニア団塊世代の方が増えてきました。<br>
<br>
このシニア団塊世代の方のために、この際ぜひ海外旅行へ出かけて<br>
新しい生き方の方向を考えてみることをお勧めします。<br>
<br>
私が生まれた東京築地にある聖路加病院の理事長で名誉院長の<br>
日野原重明博士が編集された｢６０歳からの旅は人生の栄養剤｣と<br>
いう本には、５０歳代後半から６０歳代７０歳代の人達により、<br>
国内海外を問わず年を取ってからの旅が人生を如何に素晴らしく<br>
大きく展開させるかという数々の体験談が書かれています。<br>
<br>
シニア団塊世代の方は、生き甲斐と今までとは違った生活の景色が<br>
見えてくると思います。<br>
<br>
手始めに、シニア団塊世代の方でなくてもどのような年代層でも、<br>
手軽に行きやすい、韓国か台湾など東南アジア方面がいいです。
<a href="http://www.ryokoguide.com/archives/51319657.html">続きを読む</a>]]>
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<item rdf:about="http://www.ryokoguide.com/archives/51403457.html">
<title>シニアこそ海外旅行へ</title>
<link>http://www.ryokoguide.com/archives/51403457.html</link>
<description>シニア団塊世代にとって海外旅行は老化防止の最高の妙薬です。
シニア団塊世代若い時代には経済的に楽しめなかった旅行も退職後は世界中を
あちこち回りながら見聞をますます高めながら人生の喜びを享受出来るのもシニア
団塊世代の特権です。

過去４０年の間に世界中...</description>
<dc:creator>hirokame1</dc:creator>
<dc:date>2009-08-19T13:40:01+09:00</dc:date>
<dc:subject>旅行ガイド</dc:subject>
<content:encoded><![CDATA[シニア団塊世代にとって海外旅行は老化防止の最高の妙薬です。<br>
シニア団塊世代若い時代には経済的に楽しめなかった旅行も退職後は世界中を<br>
あちこち回りながら見聞をますます高めながら人生の喜びを享受出来るのもシニア<br>
団塊世代の特権です。<br>
<br>
過去４０年の間に世界中で旅行した国々も１００を超えるようになってから<br>
今住んでいる日本の良さを再発見することも多くシニアになってからのの人生<br>
をより充実したものになるような指針を与えられるチャンスが増える一方です。<br>
<br>
世界のどの国を旅行しても、そこに住む人達からは新しい喜びを与えられることが<br>
多く、新しい出会いほど素晴らしいものはありません。<br>
<br>
<br>
<br>
<br>
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</content:encoded>
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<item rdf:about="http://www.ryokoguide.com/archives/51495707.html">
<title>ラテンの明るさとドンキホーテの国スペイン</title>
<link>http://www.ryokoguide.com/archives/51495707.html</link>
<description>
海と太陽とガウディの街バルセロナとラマンチャ地方

バルセロナ、コンポ・デ・クリプタナ・クエンカ、テルエル

まずバルセロナでは、何といっても見所はガウディの傑作、サクラダ・
ファミリア大聖堂だ。いまだに建築中で、完成するまであと何年かかる
ことやら。...</description>
<dc:creator>hirokame1</dc:creator>
<dc:date>2008-06-30T04:36:02+09:00</dc:date>
<dc:subject>旅行記</dc:subject>
<content:encoded><![CDATA[<br>
海と太陽とガウディの街<b>バルセロナ</b>とラマンチャ地方<br>
<br>
<b>バルセロナ、コンポ・デ・クリプタナ・クエンカ、テルエル</b><br>
<br>
まずバルセロナでは、何といっても見所はガウディの傑作、サクラダ・<br>
ファミリア大聖堂だ。いまだに建築中で、完成するまであと何年かかる<br>
ことやら。できればエレベータで上がって高いところからパルセロナの<br>
街を一望すすのもいい。<br>
<br>
道を隔てた隣にあるみやげ物屋には、スペインの人気サッカーチーム・<br>
ＦＣバルセロナのユニフォームセットが安く手に入る。<br>
<br>
折角スペインに来たので、内陸部のラマンチャ地方にあるコンポ・デ・<br>
クリプタナま足を延ばして、ドンキホーテが巨人と間違えて槍で<br>
向かった風車群を見学するのもよい。作者セルバンテスも休んで<br>
ドンキホーテの構想を暖めたという旅籠のレストラン・ベンタ・デル・<br>
キホーテで食事を取ることだ。<br>
<br>
出来れば途中にある世界遺産の中世の町クエンカを訪れ観光して<br>
ぜひパラドールで一泊してみたい。<br>
パラドールは古いお城や領主の館や修道院を宿泊できる様に改修<br>
した国営の雰囲気満点のホテルだ。<br>
<br>
二つの川にはさまれ、断崖絶壁に築かれた不思議な景観の世界遺産<br>
の町クエンカは、歴史的城砦都市として有名だ。<br>
日本人はあまり行かないがいい穴場だ。<br>
<br>
また近くにあるテルエルの町のパラドールも素敵だ。<br>
テルエルは世界遺産に登録された美しく華麗な建築物で有名だ。<br>
<br>
<br>
<b>グラナダ</b>と壮麗な<b>アルハンブラ宮殿</b><br>
<br>
イスラム最後の王朝グラナダと壮麗なアルハンブラ宮殿<br>
<br>
スペイン観光のハイライトは何といっても<br>
グラナダだ。<br>
<br>
グラナダはスペインがあるイベリア半島最後のイスラム王朝グラナダ<br>
王国の都であり、壮麗なアルハンブラ宮殿で名高い。<br>
<br>
宮殿と川を挟んで向かい合う丘の上には、イスラム時代の街並みが<br>
残るアルバイシンの町が望め、迷路のように入り組んだ路地に白壁<br>
の家々が並んでいる。<br>
<br>
世界遺産アルハンブラ宮殿は、壮麗な「赤い砦」を意味し、イスラム<br>
建築・芸術の粋だ。<br>
<br>
アルハンブラの隣にあるヘネラリフェ離宮の噴水や庭園も美しい。<br>
<br>
予約が取れれば、宮殿の隣にあるアルハンブラ・パレスに泊まって<br>
みることだ<br>
。<br>
ホテルのどこもがアラブ風のつくりでとても素敵で、素敵なレストラン<br>
でエスニックの料理に舌鼓を打った後、夜の帳が降りた頃テラスで<br>
お酒を傾ける経験はこたえられない。<br>
テラスの隣はアルハンブラ宮殿が影をおとし、眼下には美しい<br>
アルバイシンの夜景が宝石のように美しい。　<br>
<br>
<br>
地中海の蒼い海と白い町<b>ミハス</b><br>
<br>
地中海に面するコスタ・デル・ソル（太陽海岸）にあるおとぎの国<br>
のように美しく、白い壁の家並みが素敵なミハスを散策するのも<br>
楽しい。<br>
<br>
ミハスで一番絵になる“サンセバスチャン通り”のお店をひやかして<br>
みるのもいい。<br>
<br>
高台にあるレストランにエレベーターで昇ってくと、テラスからは<br>
地中海が眺望でき陽光がまぶしい。<br>
<br>
音楽と美術の舞台<b>セビリア</b><br>
<br>
ミハスから車で西方２４０キロ、約３時間車で走るとスペイン南部<br>
の都市でアンダルシア州の州都セビリアに入ってみる。<br>
<br>
セビリアはビゼーの「カルメン」、ロッシーニの「セビリアの<br>
理髪師」モーツアルトの「ドン・ジョバンニー」の舞台となった<br>
町で、スペイン美術史に輝くベラスケスやムリョーリョなど<br>
バロックの巨匠を生んだ町でもある。<br>
<br>
市内にあるカルメンの舞台になった旧たばこ工場へ行ってみたが<br>
いまはセルビア大学の校舎になっており、中へは入れなかった。<br>
校舎の外壁にタバコ工場と書かれたタイルが嵌め込まれており、<br>
当時を偲ばせていた。<br>
<br>
見るべき建物はやはり壮大な世界遺産のカテドラル（大聖堂）や<br>
隣接して建つ高さ９８メートルのヒラルダの塔（鐘楼）やイスラム<br>
時代の建築物の跡地に建設されたスペイン王室の宮殿アルカサルだ。<br>
<br>
セルビアといえば、フラメンコ。<br>
本場フラメンコを見られるタブラオが数多くあるが、おすすめ<br>
なのがロスガジョス（LOS GALLOS)だ。<br>
３０００円程度で素晴らしいショーを楽しめる。<br>
<br>
イスラムの文化の華<b>コルドバ</b><br>
コルドバのメスキー（モスク）<br>
<br>
セビリアから車で西方（１５０キロ）の内陸部のセルビアにも<br>
ぜひ寄って見よう。<br>
<br>
コルドバはかってイスラム時代の首都で、当時の文化や科学は、<br>
世界の先端を行っており当時を伝える建築物や街路が残されていｒ。<br>
<br>
メスキータ（モスク）やユダヤ人街のある「コルドバ歴史地区」<br>
は世界遺産に登録されている。<br>
<br>
特にメスキートは世界最大のモスコで、キリスト教時代になっても<br>
イスラム教モスクを破壊せずにカトリック教会にそのまま使った<br>
珍しい構造になっている。<br>
<br>
教会内部には、赤いレンガと白い石を組み合わせたアーチを<br>
持つ円柱約８５０本が林立する「円柱の森」は美しいの一言。<br>
<br>
同じアーチでも型の変わったデザインがあり見るものの目を<br>
楽しませてくれる。<br>
<br>
世界遺産「歴史地区」とユダヤ人街<br>
<br>
メスキータを出てしばらく歩くと、ユダヤ人街に出る。<br>
その一角に「花の小路」と呼ばれるところがある。<br>
<br>
狭い小路で、両側の外壁には綺麗な花を生けた鉢が転々と<br>
ぶら下っており、まるで花の展示場を歩いているようだ。<br>
<br>
家の扉の内を覗くと、奥はお洒落なパティオ（中庭）に<br>
なっていて、木が青々と育っており小さな植物園みたいな<br>
風情をかもしだしている。<br>
<br>
世界遺産として歴史地区に指定されているユダヤ人街は、<br>
８世紀ごろユダヤ人により作られ、細い道の両側に白壁の<br>
家が整然と建ち並んでいてとても綺麗だ。<br>
　<br>
どの道にもオレンジの木が植えられ、南国情緒が一杯だ。<br>
<br>
地区には歴史的建物の教会が２１もあり、さすが世界遺産<br>
登録されるだけあってどれも素晴らしい。<br>
<br>
コルドバからマドリッドには２時間でいける新幹線<br>
（ＡＶＡ）に乗ってみるとよい。<br>
<br>
魅惑の大都市<b>マドリッド</b>とプラド美術館<br>
<br>
マドリッドはスペインで最も人気のある観光地の一つであり、<br>
王宮やスペイン広場、マヨール広場など名所も多いが、何と<br>
いっても目玉はプラド美術館である。<br>
<br>
またピカソの「ゲルニカ」が展示されている国立ソフィア王妃芸術<br>
センター、ティッセン・ボルミネッサ美術館も必見です。<br>
<br>
プラド美術館は８０００点以上の美術作品を所蔵していて、常時<br>
展示されている作品もあるが、数が多いので順次公開している。<br>
<br>
プラド美術館は、１８世紀に自然博物館として建設が始まったが、<br>
一時ナポレオンとの戦争で工事が中断されたが、１９世紀<br>
になって王室が所蔵していた美術品を公開の目的で開館された。<br>
<br>
ゆっくり順路に従って鑑賞していくと丸一日はかかるが、限られた<br>
時間で鑑賞しようと思えば、前もってお目当ての作品をピック<br>
アップしておくことだ。<br>
<br>
数々ある作品の中で見逃せないのは、プラド三大巨匠といわれる<br>
グレコの「受胎告知」、ゴヤの「裸のマハ」「着衣のマハ」、<br>
フランスによる支配に抵抗し武装蜂起した民衆の処刑シーンを<br>
描いた「１８０８年５月３日」やベラスケスの「女官たち」、<br>
ルーベンスの「三美神」などの作品だけはお見逃しのないように。<br>
<br>
世界遺産の町<b>セゴビアとアビラ</b><br>
<br>
マドリッドの郊外にある世界遺産セゴビアも何とか訪れたい。<br>
セゴビアにはデズニー映画「白雪姫」のお城のモデルになった<br>
古城アルカサルがあり、またローマ時代の紀元一世紀前後に<br>
作られた石造りの水道橋も素晴らしい。<br>
<br>
また足をのばして、中世の城砦都市がそのまま残っている世界遺産<br>
の町アビラも必見だ。<br>
<br>
旧市街全体を完全な形を残した見事な城壁が囲んでいて絶景だ。<br>
<br>
<br>
世界遺産の古都で歴史的宗教都市<b>トレド</b><br>
マドリッドから７０キロ郊外にあり、かってスペインの首都として<br>
繁栄していたトレドも一時はイスラム教徒によって征服されたが、<br>
その後またキリスト教徒によって国土回復された土地だけあって、<br>
キリスト教、イスラム教、ユダヤ教による異文化が見事に融合し<br>
発展したため町全体が博物館と言われている。<br>
<br>
中世の面影がそのまま残った旧市街は世界遺産に登録されている。<br>
<br>
スペインの首都だったトレドは、１６世紀に首都はマドリッドに<br>
遷都されたが、トレドは現在もなおカトリックの中心を保っている。<br>
<br>
トレドは町の周りをタホ川が巡っており、スペインカトリックの<br>
総本山カテドラル（大聖堂）とアルカサル宮殿が町の中心に<br>
大きくでんと構えている。<br>
<br>
遠くから眺めるトレドの前景は一幅の絵のように美しい。<br>
<br>
トレドはまたスペインを代表する画家エル・グレコが活躍した<br>
町としても有名だ。<br>
<br>
モスクを改装したサント・トメ教会にあるグレコの代表傑作<br>
「オルガス伯の埋葬」はぜひ観ておきたい。<br>
<br>
トレドの名物「マサバン」は、アーモンドの粉と蜂蜜などを<br>
練って作ったお菓子だ。<br>
<br>
味は相当甘いが、独特の甘さが口の中で微妙に広がってとても<br>
美味しい。<br>
 <br>
<br>
<br>
<br>
<br>
 <br>
]]>
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</item>
<item rdf:about="http://www.ryokoguide.com/archives/51483142.html">
<title>魅惑の音楽の国オーストリア</title>
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<description>ウイーンとザルツブルクは何回訪れても飽きのこない美しい
芸術と音楽の都です。

魅惑の都ウイーン

ウイーンは街中の何処を歩いてもあたりは美術的、歴史的な建築物
ばかりで感動の連続。
リンク（環状道路）沿いには見事で華麗な建物が目に飛び込んでくる。
まる...</description>
<dc:creator>hirokame1</dc:creator>
<dc:date>2008-01-09T08:13:24+09:00</dc:date>
<dc:subject>旅行ガイド</dc:subject>
<content:encoded><![CDATA[ウイーンとザルツブルクは何回訪れても飽きのこない美しい<br>
芸術と音楽の都です。<br>
<br>
<b>魅惑の都ウイーン</b><br>
<br>
ウイーンは街中の何処を歩いてもあたりは美術的、歴史的な建築物<br>
ばかりで感動の連続。<br>
リンク（環状道路）沿いには見事で華麗な建物が目に飛び込んでくる。<br>
まるで建築博覧会に迷い込んだようです。<br>
<br>
ウイーンは音楽好きのフルムーン夫婦にとってはこたえられない街だ。<br>
大音楽家の足跡を探索してみましょう。<br>
シュテファン寺院の近くにあるモーツアルト記念館になっている<br>
フィガロハウス、ベートーベンが30歳の時遺書をかいたといわれる<br>
ハイリゲンシュタットのベートーベンハウス、シューベルトの生家は<br>
今は博物館になっています。ブルックナーが晩年住んでいたベルベデーレ<br>
宮殿やウイーン劇場はベートーベンがこの劇場内に住み交響曲3番<br>
（英雄）を作曲しました。<br>
大作曲家達が住んだことのある家を数え上げたら限がないほどです。<br>
<br>
ウイーンへ行く大きな楽しみの一つは国立オペラ劇場でオペラを<br>
鑑賞することです。<br>
ウインフィルの演奏で、本場で観る世界一流歌手による数々の演目<br>
も素晴らしいが、少しお洒落に服装を整えて、休憩時間に豪華な<br>
休憩サロンでシャンパンを傾けるひと時は何とも言えぬ気分です。<br>
<br>
ともかく国立オペラ劇場は建物の中を見るだけでも溜息がでるほど<br>
素晴らしい。<br>
<br>
日本から一緒に行った女性と歌劇「ラ・ボーム」を見に行った時に<br>
開演すると感激のしっぱなしで、彼女が言うには、役者ロドルフォ<br>
やミミの声と言うか完璧に役にはまりきった演技と言うか舞台装置<br>
というか全てがとにかくすごい。<br>
見ていると感情移入して泣きまくりの状態で、日本のオペラのよう<br>
な一生懸命歌っています的なシンドサは欠けらもなくて、愛し合う<br>
哀しい美しさがひしひしと込み上げて来て、体中がしびれれて<br>
しまう空間を体験したそうです。<br>
上から二番目に高いボックス席を確保して連れて来てもらった<br>
ことを本当に感謝されました。<br>
<br>
穴場は空港へ行く途中にある中央墓地です。そこの３２区には、<br>
有名な音楽家たちが大勢眠っています。<br>
<br>
モーツアルトの記念碑を中心にベートベン、シューベルト、<br>
ヨハン・シュトラウス、ブラームスたちのお墓が集まっており<br>
墓石も見事に作られ一種の美術作品を見ているようです。<br>
<br>
映画「第三の男」のラストシーンにでてくる並木道も美しい。<br>
<br>
<b>ドナウ河めぐり</b><br>
<br>
折角来たのだから、世界遺産となった大河ドナウの景勝地を<br>
遊覧するのも一興です。<br>
このあたりのドナウ河の地形は変化に富み、ドナウの最も<br>
風光明媚なヴァッハ渓谷をクルーズしてみましょう。<br>
<br>
ワインの産地クレムスでワインを試飲し、伝説の古城が建つ<br>
メルヘンのような町を訪れ、豪壮なお城のようなバロックの<br>
ベネディクト派の修道院がそびえたつメルク観光では、<br>
ドナウ河を見下ろす修道院のテラスからの眺望が素晴らしい。<br>
修道院の中の、神学、哲学、医学、法学の蔵書が十万冊<br>
も並ぶ図書館は圧巻です。<br>
<br>
ワインが出たての旬の季節にオーストリアへ行かれる方は<br>
ぜひ「トゥルム」というワインを飲んでみることです。<br>
まるでどぶろくの状態でブドウの発酵しかかった飲み物で<br>
大変おいしい。<br>
　<br>
<b>モーツアルトのふるさとザルツブルク</b><br>
<br>
モーツアルトのふるさとザルツブルクは大好きな街だ。<br>
高い丘の上から市内を見下ろすように聳え立っている<br>
ホーエンブルグ城をミラベル庭園から眺めると一幅の<br>
絵のようです。<br>
<br>
市内にはモーツアルトの生家や聖ペーター教会、ドーム<br>
広場、大学教会、大主教が住んでいたレジデンスなど<br>
があり、岩盤をくり貫いて作られた音楽劇場では毎年<br>
夏のザルツブルク音楽祭には世界中から集まる<br>
音楽ファンで賑わいます。観た時は感激しました。<br>
<br>
ザルツブルクには世界的に誇れる劇場があります。<br>
マリオネット劇場という人形芝居の劇場です。<br>
モーツアルトの「後宮からの脱走」という芝居を<br>
見て感激しました。<br>
何といっても人間もまねの出来ないほどの精妙な<br>
表情はびっくりするほどで、舞台の芝居が自然に<br>
普通に感じて見入ってしまいました。<br>
<br>
最後に人形を操っていた人達（人形一体につき一人）<br>
が出てきて挨拶した時はすごい拍手で感動しました。<br>
<br>
<b>美しい山と湖のザルツカンマーグ－ト</b><br>
<br>
ザルツブルクの近郊で東には、緑の丘陵地帯に<br>
広がるザルツカマーグートがあります。<br>
映画「サウンド・オブ・ミュージック」の舞台になった<br>
景勝地で、大小８０余りの湖が、宝石のように点在<br>
しています。<br>
<br>
まずマリアが結婚式をあげたモントぜー教会から<br>
ザンクト・ギルゲンにあるモーツアルトの母アンナ<br>
マリアの生家そ見て、そこからボルグガング湖を<br>
ザンクト・ボルグガングを遊覧船で湖上遊覧を<br>
楽しみザンクト・ボルフガングで船から下りて<br>
オペレッタの舞台で有名な「白馬亭」でマス料理<br>
に舌づつみを打つのもいいです。<br>
<br>
絵のように美しい世界遺産の町ハルシュタットでは<br>
町外れのケーブルカーに乗り、世界最古の塩鉱抗<br>
を見学してみてください。<br>
山上から見下ろすハルシュタット湖は夢のように<br>
美しく神秘的です。<br>
]]>
</content:encoded>
</item>
<item rdf:about="http://www.ryokoguide.com/archives/51403156.html">
<title>沖縄・始めての海外旅行</title>
<link>http://www.ryokoguide.com/archives/51403156.html</link>
<description>沖縄って海外旅行？

１９６０年台の沖縄は、アメリカの統治下にあり沖縄へ行くには、旅券
にあたる渡航証明書が必要でした。

航空機はダグラスＤＣ６Ｂという６４人乗りのプロペラ機でした。
出発空港は大阪伊丹空港で施設もお粗末で、戦後に建てられた
米軍のカマ...</description>
<dc:creator>hirokame1</dc:creator>
<dc:date>2008-01-08T23:30:23+09:00</dc:date>
<dc:subject>旅行記</dc:subject>
<content:encoded><![CDATA[<b>沖縄って海外旅行？</b><br>
<br>
１９６０年台の沖縄は、アメリカの統治下にあり沖縄へ行くには、旅券<br>
にあたる渡航証明書が必要でした。<br>
<br>
航空機はダグラスＤＣ６Ｂという６４人乗りのプロペラ機でした。<br>
出発空港は大阪伊丹空港で施設もお粗末で、戦後に建てられた<br>
米軍のカマボコ兵舎が並んでおり、そこを入管や税関が使っていました。<br>
<br>
現在に比べると当時の機内食はフルコースで豪華なものでした。<br>
３時間余りの沖縄への旅は見るものすべてが大変珍しく驚きの<br>
連続でした。<br>
<br>
<b>プチ・アメリカ、Welcome to コザ</b><br>
<br>
その頃勤めていた航空会社の沖縄支店があるコザへ行きました。<br>
当時東南アジアに就航していたノースウエスト航空やアメリカ系会社の<br>
支所が集まっており、美しくﾃﾞｨｽﾌﾟﾚｲされたブティックや日本国内では<br>
見れないハイセンスな品々を陳列した店々が並んだショッピング・スクエア<br>
に沖縄支店がありました。<br>
<br>
コザの大通りは、嘉手納基地に近いせいか、道行く人の９割がたは<br>
アメリカ人でした。<br>
ライブハウス（クラブ）が軒を並べ、呼び込みも激しく独特の雰囲気の<br>
街でした。<br>
<br>
現在は市町村合併によってコザという地名が消え、沖縄市になっている<br>
そうです。<br>
コザの一帯は、現在独自な文化を誇る沖縄の中でもとても個性的な<br>
街だといわれています。<br>
<br>
<b>首里城は蘇る</b><br>
<br>
戦前の首里城はアメリカ軍の猛烈な砲撃を受け炎上し、その姿を<br>
完全に消していました。<br>
<br>
当時首里城のある丘は、琉球大学のキャンパスになっており、守礼門<br>
は修復中でした。<br>
石垣の端に腰をかけて、沈み行く夕日をぼおっと眺めていました。<br>
<br>
現在首里城は、繁栄を誇ったかっての琉球王国を彷彿とさせる元の<br>
姿に復元されており、日本と中国の建築様式を見事に取り入れた<br>
沖縄文化の独自性をよく顕わしています。<br>
<br>
またグスクと呼ばれる沖縄の城跡も首里城とともに沖縄の歴史・文化<br>
を象徴するもので必見です。<br>
それらは２０００年に世界遺産として文化遺産に登録されました。<br>
<br>
<b>ぜひ見たい周辺の文化財</b><br>
<br>
首里城以外にも、沖縄には歴史的建造物や史跡がいろいろあり、<br>
沖縄らしい景観を与えています。<br>
<br>
<b>龍潭（りゅうたん）</b><br>
<br>
琉球を始めて統一した尚王が造らせた池。<br>
この池に船を浮かべ、水面に映る美しい首里城の姿を眺めながら<br>
中国の皇帝の使者を歓待したといわれています。<br>
<br>
<b>金城町の石畳道</b><br>
<br>
昔の風情を漂わせる１６世紀の主要道路として造られた石畳道です。<br>
<br>
<b>円覚寺</b><br>
<br>
琉球隋一の寺院。<br>
<br>
<b>末吉宮（すえよしぐう）</b><br>
<br>
かって琉球八社の一つ。社壇と呼ばれています。<br>
<br>
<b>玉陵（たまうどん）</b><br>
<br>
祈りによる世界運動を推進する昌美会長のご先祖、尚王統を祀る<br>
王基（お墓）です。その規模の立派さには驚きます。<br>
<br>
<br>
<b>何でもそろっている闇市場の賑わい</b><br>
<br>
今や賑やかな国際通りは、店も貧弱で通る人の数も少なく、通りから<br>
入った闇市場の方が活況を呈しており、あらゆる品々が乱雑に並び<br>
興味深かったです。<br>
<br>
現在、闇市場は平和通り、市場本通りとなっています。<br>
戦前は淋しい湿地地帯でしたが、戦後、旧市街が米軍に接収されたため<br>
ここにバラックや闇市場が自然発生的に出来始め、やがて一大商店街<br>
となりました。<br>
いまは立派なアーケードも設置され、地元の人や観光客で賑わっています。<br>
<br>
市場本通りから続く牧志公設市場には、あらゆる食材が売られており、<br>
２階は食堂街になっていて沖縄ならではの家庭料理が満喫できます。<br>
調理料金を払えば、１階で買った食材を料理してくれる店もあります。<br>
<br>
<b>盛り場と裏町酒場</b><br>
<br>
沖縄支店の友人が連れて行ってくれたのは、コザ十字路にある盛り場の<br>
酒場でした。<br>
そこで初めて爆弾飲みというのを体験しました。<br>
ウイスキーか焼酎を満たしたグラスをビールを入れたタンブラーの底に<br>
落とし、それを一気に飲むのです。<br>
お陰で翌日は一日中ゲーゲと嘔吐に苦しみ、終日部屋で伏せてしまう<br>
有様、情けない限りでした。<br>
<br>
<b>琉球料理、琉球舞踊、これぞ沖縄文化だ</b><br>
<br>
当時は料亭の数も少なく、しかもそこで出される琉球料理がとても<br>
珍しいものばかりでした。<br>
豚の角煮などの豚肉の料理が多く、これが美味というものかと<br>
感激したのを思い出します。<br>
<br>
琉球料理に舌鼓を打ちながら楽しむゆったりと舞う琉球舞踊と、艶やかな<br>
紅型衣装に身を包む舞姫たち、三味線（じゃみせん）が奏でる独特の旋律<br>
に酔いしれました。<br>
<br>
<b>悲惨な傷跡・南部戦跡（摩文仁の丘）</b><br>
<br>
沖縄戦が終結した傷跡を残す南部戦跡へ初めて訪れました。<br>
車から降りて、沖縄守備軍の牛島司令官が自決した摩文仁の丘までの<br>
道は険しく、あたりに何もないないところをふうふういって上りました。<br>
<br>
現在の摩文仁の丘一帯は、整備され、悲惨な戦争を後世に伝え、二度と<br>
繰り返すことがないよう平和記念公園になっています。<br>
太平洋を見渡す絶景の地に各都道府県が競って建てた沢山の慰霊塔が<br>
点在しています。<br>
沖縄戦で亡くなられたすべての人々の氏名が刻まれた碑「平和の礎」が<br>
海に向かって整然と建てられています。<br>
<br>
<b>ひめゆりの塔は黙して語らず</b><br>
<br>
県立第一高等女学校と沖縄師範学校女子部の生徒と職員２１０名で成る<br>
「ひめゆり部隊」の学徒たちがアメリカのガス弾を浴びて亡くなった御霊<br>
を祀っている「ひめゆりの塔」も周りにまだ柵もなく、覗き込むと黒い洞穴<br>
に今にも吸い込まれそうな錯覚にとらわれました。<br>
こんなところでうら若き乙女たちが、悲惨な最期を遂げたのかと思うと<br>
唯々涙するのみでした。<br>
<br>
<b>この世のパラダイス、紺碧の空と海と白砂ビーチ</b><br>
<br>
泊まった旅館の手伝いに来ていた彫りの深い可愛い女の子の案内で、<br>
渡具知ビーチというところへ行きました。<br>
那覇から車で３０分の観光客の少ない穴場的なサンドビーチでした。<br>
きらきらとエメラルド色に輝く、青く透き通った海と紺碧の空。<br>
わあ、何てきれいな海と波打ち際ではしゃぐ二人は、沖縄のアバンチュール<br>
を存分に楽しみました。<br>
お陰で帰国が２日延び、帰ってから上司に絞られること、絞られること。<br>
今は懐かしく若い頃の想い出で、感慨ひとしおです。<br>
<br>
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<item rdf:about="http://www.ryokoguide.com/archives/51395239.html">
<title>ニューデリーでダライラマと平和を祈る</title>
<link>http://www.ryokoguide.com/archives/51395239.html</link>
<description>普通の気さくなおじさん、ダライラマ

１９８９年１１月、私たち世界平和を祈る同志３０名は、インドの首都ニュー
デリーへ向かいました。

それはダライラマをはじめ世界の宗教代表者が集う世界平和の祭典がニュー
デリーで催され、それに参加するためです。

その...</description>
<dc:creator>hirokame1</dc:creator>
<dc:date>2007-12-26T16:08:51+09:00</dc:date>
<dc:subject>旅行記</dc:subject>
<content:encoded><![CDATA[<b>普通の気さくなおじさん、ダライラマ</b><br>
<br>
１９８９年１１月、私たち世界平和を祈る同志３０名は、インドの首都ニュー<br>
デリーへ向かいました。<br>
<br>
それはダライラマをはじめ世界の宗教代表者が集う世界平和の祭典がニュー<br>
デリーで催され、それに参加するためです。<br>
<br>
その祭典の中で、私たちは世界１７８ヶ国（現在世界の国は１９１ヶ国に<br>
増えています）の平和を祈るピース・セレモニーを挙行したのでした。<br>
<br>
会場の壇上には、中央にインドのヒンズー教を代表して、高僧シャンカラ・<br>
アーチャリヤやスコットランドの第１２世タイシトゥパ・リンポチェ、隣に<br>
ダライラマ、その他バハイ教、ゾロアスター教、キリスト教、ユダヤ教、<br>
イスラーム教、神道など世界の１２大宗教の宗教指導者が席を占めて<br>
いました。<br>
<br>
ヒンズー教の高僧シャンカラ・アーチャリヤの名は、８世紀に活躍したインドの<br>
偉大な哲学者・智者シャンカラチャリヤに由来し、最高の叡智を得た賢者<br>
（悟ったひと）を尊称しています。<br>
<br>
チベット仏教でリンポチェとは活仏（生きぼとけ）をいい、チベット仏教では<br>
最高の位で、第１２世タイシトゥパ・リンポチェはダライラマより上位にある<br>
ヘッド・ラマです。今回もこのリンポチェが出席するので、ダライラマも出席<br>
するようになったそうです。<br>
<br>
会場の名前を失念しましたが、学校の講堂みたいなところで、ピース・セレモニー<br>
では１７８ヶ国の平和を一国一国名前を呼んで、その国の国旗を挙げていくのです。<br>
それでチベット人の学生が３０００人も応援に来て手伝ってくれ盛り上げてくれ<br>
ました。<br>
<br>
私は、ダライラマやリンポチェたちを控え室から会場の壇上へ案内する役を仰せ<br>
つかりました。<br>
<br>
途中、ダライラマと挨拶やら簡単な会話を交わしました。<br>
私と同年輩であるという気安さからか、気楽に言葉を交わせ、この人が世界でも<br>
名だたる偉人とは到底思えないほど腰の低い人でした。<br>
<br>
ところで控え室で一寸したハプニングがありました。<br>
<br>
チベット仏教に造詣の深い私の社員が、会場へ行く前にダライラマに急に一緒に<br>
般若心経をお祈りしましょうと言い出しました。<br>
そして朗々と般若心経を読誦しだしました。<br>
それもチベット語でです。<br>
<br>
一瞬一同は唖然とした表情でしたが、それに合わせて皆声を上げて祈りはじめ<br>
ました。<br>
終わった途端万来の拍手が返ってきました。<br>
<br>
内心私も大変驚きましたが、何故か日本人として誇らしい気持ちになったのも<br>
事実です。<br>
<br>
面白かったのは、壇上の中央にシャンカラチャリヤが座る席をヒンズー教の僧侶<br>
たちが設置したのですが、他の宗教者たちより席が高くなるように煉瓦を積んで<br>
その上に金ぴかの綺麗な装飾を施した立派な椅子を置き、その後ろに天蓋の<br>
ような傘を立てていたのです。<br>
<br>
いかにも他の宗教者より偉いんだと権威を示そうとするその考え方に、これが<br>
ヒンズー教の最高の智者なのかと奇妙な可笑しさを感じました。<br>
<br>
リンポチェやダライラマや他の宗教者たちは、そんな事を全く意に介しない<br>
様子が対照的でした。<br>
<br>
<b>ダライラマ法王１４世とは</b>。<br>
<br>
ダライラマは、１９３５年７月６日、自作農を営む家に誕生し、２歳の時に<br>
ダライラマ１３世の転生者（生まれ変わり）と認められました。<br>
<br>
ダライラマとはモンゴルの称号で「智慧の海・大海」を意味し、観音菩薩の<br>
化身とされています。<br>
<br>
ダライラマは、チベット民族の国家的、精神的指導者ですが、幼少より<br>
大変利発で仏教哲学の最高学位の博士号をもっています。<br>
<br>
中国が１９４９年にチベットへ侵攻した後、一応チベットの全政治的権限が<br>
ダライラマ法王に委任されましたが、１９５９年、中国の圧力に抗してラサの<br>
市民がとうとう武装蜂起をしました。<br>
それを中国軍は残虐な方法で弾圧するに至ると、ダライラマは国外への<br>
脱出を余儀なくされたのです。<br>
<br>
ダライラマはこの半世紀近く、インドの北部のダラムサラにおいてチベット<br>
亡命政府の元首としての立場を保たれています。<br>
<br>
１９８９年には、チベットの自由のために非暴力による闘争を評価され<br>
ノーベル平和賞を受賞されました。<br>
<br>
ダライラマに対するチベット人が抱く尊敬の念は、言葉では言い表せない<br>
ほど深いものがあります。<br>
<br>
私がチベットのラサのある寺院へ行ったとき、一人の僧侶が寄ってきて<br>
寺の隅に引っ張り込み、ダライラマの写真を持っていれば是非譲って<br>
欲しいと懇願されました。<br>
たまたま持っていたので、それをあげると涙を流さんばかりに感謝され<br>
ました。<br>
<br>
若し迂闊にも中国の官憲に見つかると、即座に逮捕され、やった方も<br>
もらった方も重い刑に処せられるそうです。<br>
写真をやるにも命がけです。<br>
<br>
チベットにも面白い体験があります。<br>
またの機会にお話したいと思います。<br>
<br>
<b>どのようにしてダライラマに会えたの</b>？<pre></pre><pre></pre>
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</content:encoded>
</item>
<item rdf:about="http://www.ryokoguide.com/archives/51328751.html">
<title>つわもの共の夢の跡チュニジア</title>
<link>http://www.ryokoguide.com/archives/51328751.html</link>
<description>９８７年２月、ピースツアーのメンバー１７名は、モロッコを周遊したあと
チュニジアを訪れました。

チュニジアは、北アフリカの一角を占め、日本の約半分の大きさで人口
一千万人の国です。

今でこそ、チュニジアのことは良く知られており、人気ルートになって
い...</description>
<dc:creator>hirokame1</dc:creator>
<dc:date>2007-09-14T03:37:29+09:00</dc:date>
<dc:subject>旅行記</dc:subject>
<content:encoded><![CDATA[９８７年２月、ピースツアーのメンバー１７名は、モロッコを周遊したあと<br>
チュニジアを訪れました。<br>
<br>
チュニジアは、北アフリカの一角を占め、日本の約半分の大きさで人口<br>
一千万人の国です。<br>
<br>
今でこそ、チュニジアのことは良く知られており、人気ルートになって<br>
いますが、当時はまだチュニジアへ行く日本人は少数でした。<br>
<br>
<br>
<b>カルタゴ（カルタージェ）の遺跡</b><br>
<br>
首都はチュニスですが、着くと早速地中海の古代国家カルタゴの遺跡へ<br>
行ってみました。<br>
<br>
歴史好きな私には、カルタゴに一度は訪れてみたいところでした。<br>
かってカルタゴは、紀元前９世紀より地中海貿易で繁栄したフェニキア人<br>
の都市国家で、ローマ人との戦いで負けるまで強力な力を誇っていました。<br>
<br>
ローマ帝国との戦いといえばボエニ戦争です。<br>
<br>
カルタゴの猛将ハンニバルが象に乗った大群を率いてアルプスを越え<br>
ローマに攻め込んだが、最後は北アフリカで大敗し、ローマの属国に<br>
なってしましました。<br>
<br>
町は徹底的に破壊され、残っているのは無残な残骸だけでした。<br>
「つわもの共の夢のあと」と感懐ひとしおでした。<br>
<br>
遺跡の近隣は、今では大統領官邸や大使館などが並ぶ高級住宅街<br>
になっています。<br>
印象的だったのは、前に広がる海と空の青さの素晴らしさです。<br>
<br>
<b>青と白の街シディ・ブーサイド</b><br>
<br>
すこし足を延ばして、保養地シディ・ブーサイドへ行きました。<br>
この街の特徴は、どの家も壁や屋根は真っ白で窓枠や扉だけが<br>
チュニジアンブルーといわれる鮮やかな青色に塗られていることです。<br>
<br>
何ともエキゾチックな雰囲気の街で、一見の価値はあります。<br>
高台に建つ、世界最古といわれるカフェ・ナットへ行ってみました。<br>
ミントティを楽しみながら、ここのテラスからの眺望は最高です。<br>
<br>
ここ以外に地中海に面したリーゾート地としては、スースがあります。<br>
スースの旧市街は、世界遺産に指定されています。<br>
<br>
<b>世界遺産ケロアン（カイルーアン）旧市街</b><br>
<br>
チュニジアでぜひ訪れたいのは、ケロアンです。<br>
<br>
７世紀になるとアラブ人が侵入してきて、チュニジアの各地を<br>
イスラム化していき、ケロアンも古くはアラブ軍の軍営都市として<br>
繁栄していきました。<br>
<br>
ケロアンは、メッカ、メディナ、イルラエルに次ぐ聖地で、ここを<br>
３回訪れると、メッカに巡礼したのと同じだといわれています。<br>
<br>
ここのメディナ（旧市街）も世界遺産になっており、街の中心に<br>
アフリカで最古のグラン・モスクがあります。<br>
<br>
美しいミナレット（尖塔）と５００本以上の大理石の柱が素晴らしく<br>
圧倒されました。<br>
<br>
またここの黒ごまのついたパンがとっても美味しく、街の中にある<br>
パン工場を見学しました。<br>
<br>
日本からここのパンを食べに来たんだというと、焼きたての<br>
ほかほかのパンを満足するまで賞味させてくれたのを覚えて<br>
います。
<a href="http://www.ryokoguide.com/archives/51328751.html">続きを読む</a>]]>
</content:encoded>
</item>
<item rdf:about="http://www.ryokoguide.com/archives/51328754.html">
<title>チュニジアのＰＬＯ本部でアラファト議長と語る</title>
<link>http://www.ryokoguide.com/archives/51328754.html</link>
<description>チュニスヒルトンにアラファト議長の迎えの車が

１９８７年２月、チュニスではヒルトンホテルに宿泊していました。
９時ごろ遅い夕食をレストランでしていると、ボーイがやって来てロビーに
ＰＬＯ（パレスチナ解放機構）の幹部が会いにきているとのことです。

ロビ...</description>
<dc:creator>hirokame1</dc:creator>
<dc:date>2007-09-13T04:07:16+09:00</dc:date>
<dc:subject>旅行記</dc:subject>
<content:encoded><![CDATA[<b>チュニスヒルトンにアラファト議長の迎えの車が</b><br>
<br>
１９８７年２月、チュニスではヒルトンホテルに宿泊していました。<br>
９時ごろ遅い夕食をレストランでしていると、ボーイがやって来てロビーに<br>
ＰＬＯ（パレスチナ解放機構）の幹部が会いにきているとのことです。<br>
<br>
ロビーには、アラファト議長の右腕といわれる将校が二人待っていました。<br>
（後で知らされたのですが、そのうちの一人が殺されたそうです）<br>
<br>
彼らの言うには、アラファト議長が今からお会いしたいとのことです。<br>
遅い時間になったのは、彼は先刻、イギリスから帰ってきたばかりだ<br>
そうで、今日の夜しか会う時間が取れないとのことです。<br>
<br>
実は、ツアーの出発する３ヶ月前に、アラファト議長にぜひお会いして<br>
世界が平和になるようにと一緒に祈りたいと、東京にあるＰＬＯの<br>
出先機関を訪れたのです。<br>
<br>
<b>どん底のアラファト議長</b><br>
<br>
その当時、アラファト議長は大変な苦境にありました。<br>
<br>
というのは、パレスチナ解放運動の指導者になったアラファト議長は、<br>
パレスチナ難民が多く居住するヨルダンに拠点を作りイスラエルと<br>
戦闘していました。<br>
しかしヨルダンの情勢悪化を恐れたヨルダン国王によって追放されて<br>
しまいました。<br>
<br>
今度はレバノンの首都ベイルートに移ってイスラエルに対して武装闘争<br>
を続けました。<br>
<br>
しかし、今度はイスラエルのレバノン攻撃（レバノン戦争）の結果、<br>
ベイルートからも追い出され武装闘争の根拠地を失って政治生命を<br>
実質上断たれていました。<br>
<br>
そこで中東問題に協力的なチュニジアが、ＰＬＯに手を差し伸べてきたので<br>
ＰＬＯの本部をチュニスに移したのです。<br>
<br>
当時のＰＬＯは、財政的にも最悪の状態で、難民キャンプでは満足な食料<br>
もなく、人が亡くなると死体の肉を食べている（人肉事件）という噂まで出る<br>
始末です<br>
<br>
そこでＰＬＯ連絡事務所の責任者に、こういう時に、チュニス本部に出向<br>
き、アラファト議長と直接お会いして、パレスチナ人民が幸せになるように<br>
心から祈りたいという我々の意図を懸命に説きました。<br>
<br>
責任者のいうには、苦境の中にあってもアラファト議長は、パレスチナ人民<br>
のために世界中を駆け巡っており、いつ暗殺されるかも知れないので、<br>
ほんの一部の側近しか彼の行動日程が分からないそうです。<br>
<br>
しかし、私たちの好意ある意向を何とか、連絡をとってアラファト議長に<br>
伝えるように鋭意努力すると約束してくれました。<br>
<br>
ところが、出発間際になっても現地から連絡がないとのことでした。<br>
仕方なく、予定通りツアーは出発しました。<br>
<br>
それが、チュニス滞在の最終日に、議長がお会いするとからといって、<br>
ジープで迎えに来たのです。<br>
<br>
期待をしていなかったので、大変な驚きでした。<br>
兎も角、ツアーの団長と二人は迎えのジープに乗りました。<br>
<br>
<b>ジープでＰＬＯ本部へ</b><br>
<br>
ＰＬＯ本部は、チュニスの近郊にあり、警備上本部入り口の３０メートル<br>
ほど手前で降ろされました。<br>
<br>
本部入り口とところどころに、自動小銃を持った警備兵が目を光らせて<br>
いました。<br>
一応身体を調べられて、中へ入りました。<br>
<br>
建物は木造の粗末な２階建ての建物でした。<br>
<br>
アラファト議長の部屋は、２階の突き当たりに在りました。<br>
６畳ほどの部屋に、アラファト議長は、よく見る頭にターバンのような布を<br>
被り、軍服と腰には拳銃をつけた姿でにこやかに迎えてくれました。<br>
<br>
さっそく、この平和運動の提唱者である五井昌久先生が書いた「世界人類<br>
が平和でありますように」と書かれた額を進呈しました。<br>
<br>
<b>アラファト議長と共に世界平和を祈る</b><br>
<a href="http://image.blog.livedoor.jp/hirokame1/imgs/9/3/93eb234b.jpg" target="_blank"><img src="http://image.blog.livedoor.jp/hirokame1/imgs/9/3/93eb234b-s.jpg" width="159" height="117" border="0" alt="arafato2" hspace="5" class="pict" /></a><br>
<br>
それとピースメッセージと呼ぶアラビア語で「アッサラーム・リルアーラム・<br>
アジマ」（世界人類が平和でありますように）と書いたメモを１００枚を一冊<br>
に纏め、こよりで綴じた小冊子を贈りました。<br>
<br>
これは前日、ガイドさんに「世界人類が平和でありますように」とアラビア語<br>
でサンプルに書いてもらい、１７名のメンバーが手分けして１００枚懸命に<br>
書いたものです。<br>
当然かな釘のようなアラビア文字を写すだけでも、大変な作業でした。<br>
<br>
ガイドさんが診て、余りに違うものは手直ししてもらい、小冊子の表紙は<br>
富士山の絵葉書を使いました。<br>
<br>
このピースメッセージを受け取って、アラファト議長はパラパラとめくると、<br>
一瞬ハットして、目が潤んだ様子でした。<br>
<br>
日本人が、下手ながらもアラビア語で、心を込めて書き上げた熱意が<br>
伝わったのだろうと感じました。<br>
<br>
<b>アラファト議長は熱く語る</b><br>
<br>
アラファト議長は言いました。<br>
<br>
「あなたたち日本人は、大変幸せな国民です。<br>
広島に原爆を落とされ、日本中が爆弾の洗礼を受け、町が廃墟に<br>
なっても、あなたたちには国が残っています。<br>
<br>
こうして、あなたたちが外国に出向いて、人の幸せや平和の祈ろうとして<br>
いることに敬意を表します。<br>
<br>
われわれパレスチナ人は、国を追われ今他国で仮住まいする身です。<br>
いつの日か、われわれば故郷のイスラエルへ必ず帰ります。<br>
<br>
エルサレムという意味は、あなた方の祈り言葉のアッサラームからなって<br>
おり、アッサラームとは、愛とか平和という意味です。<br>
<br>
私の名前のヤセル・アラファトというのも、ヤセルは静かな、争いのない<br>
という意味で、アラファトというのは、聖地メッカの郊外にある巡礼者が<br>
崇める聖山の名前です。<br>
<br>
私は決して争いを好むものではありません。<br>
<br>
じっと私の目を見て話すアラファトさんの目は、まるで子供の目のように<br>
澄んで輝いていました。<br>
<br>
カリスマとは、こんな人のことをいうのだなと、つくづく実感しました。<br>
<br>
後日、テレビでアラファト議長が国連の会議場で目を鷹のようにらんらんと<br>
光らせ、拳を振り上げてスピーチしている姿を見て、これがあの時と同じ<br>
アラファト議長なのかなと思ったくらいです。<br>
<br>
人間立場が違うと変わるのだなと変に感心しました。<br>
<br>
<br>
<a href="http://image.blog.livedoor.jp/hirokame1/imgs/0/7/07342a02.jpg" target="_blank"><img src="http://image.blog.livedoor.jp/hirokame1/imgs/0/7/07342a02-s.jpg" width="160" height="118" border="0" alt="arafato1" hspace="5" class="pict" align="left" /></a>アラファト議長から、これはパレスチナ人が織ったものですといって、<br>
壁掛けかテーブルクロスのようなものを頂きました。<br>
<br>
<br>
<br>
<b>アラファト議長の自宅の庭にピースポールを建てる</b><br>
<br>
翌日、アラファト議長の自宅を訪れ、「世界人類が平和でありますように」<br>
とアラビア語と日本語と英語で描かれたピースポールを庭の中央に穴を<br>
掘って建て、ＰＬＯの幹部等とポールの周りに輪になって一緒に祈りました、<br>
<br>
アラファト議長は、すでに朝早く出かけており、不在でした。<br>
パレスチナ人の平和を求めて東奔西走するカリスマとは正にアラファト<br>
議長のことですね。<br>
<br>
では、次にインドのカルカッタでお会いした<a href="http://www.ryokoguide.com/archives/51330305.html">マザー・テレサ女史</a>のことに<br>
ついお話しましょう。<br>
]]>
</content:encoded>
</item>
<item rdf:about="http://www.ryokoguide.com/archives/51334807.html">
<title>インドでマザー・テレサに会ったってうそっ！</title>
<link>http://www.ryokoguide.com/archives/51334807.html</link>
<description>
カルカッタ（コルカタ）でピース・セレモニー（世界平和の祈り）

１９８８年２月、東京から４５名と大阪から２４名の総勢７０名の
ピースツアー一行は、タイ国際航空にてバンコックに一泊し、
一路インドのカルカッタへ向かいました。

現在、カルカッタはイギリス...</description>
<dc:creator>hirokame1</dc:creator>
<dc:date>2007-09-12T16:22:38+09:00</dc:date>
<dc:subject>旅行記</dc:subject>
<content:encoded><![CDATA[<br>
<b>カルカッタ（コルカタ）でピース・セレモニー（世界平和の祈り）</b><br>
<br>
１９８８年２月、東京から４５名と大阪から２４名の総勢７０名の<br>
ピースツアー一行は、タイ国際航空にてバンコックに一泊し、<br>
一路インドのカルカッタへ向かいました。<br>
<br>
現在、カルカッタはイギリス植民地統治の痕跡を一掃するために<br>
地名が英語名称のカルカッタからベンガル語のコルカタに変更<br>
されました。<br>
<br>
インドの他の大都市では、ボンベイがムンバイに、マドラスが<br>
チェンナイに変わりました。<br>
<br>
当時日本からカルカッタ（コルコタ）への直行便がなく、バンコック<br>
で一泊してから行きました。<br>
<br>
２月、３月はインドの乾季にあたり、絶好の旅行シーズンのため<br>
交通機関、ホテルとも大変混んでいました。<br>
<br>
カルカッタ空港で、入国手続きの時、ふと横を見るとマザー・<br>
テレサ女史が立っていました。<br>
何という偶然なのだろうと近づいて話しかけました。<br>
<br>
前もって約束していただいたテレサの祈りの家を訪問する予定を<br>
確認しました。<br>
ちょうど同じ飛行機でバンコックより戻ってこられたそうです。<br>
<br>
翌日市内の会場・カルカッタ・スケートティングリンクでピース<br>
セレモニーが<br>
行われました。１０００名ほどの参加者で、会場はむせかえる<br>
ような熱気でした。<br>
<br>
<b>歌舞伎女形の艶やかな舞い</b><br>
<br>
私たちの中に、若い歌舞伎役者の尾上梅之助さんという祈りの<br>
同志がおられセレモニーの後、あでやかな日本舞踊を披露して<br>
くれました。<br>
<br>
楽屋部屋でそのお化粧ぶりを拝見してみると、みるみる美しく<br>
妖艶な顔に変身していく様をびっくりして見ていました。<br>
<br>
その時間たったの２０分。見事な女形姿です。<br>
まざまざとプロの凄さを垣間見ました。<br>
<br>
かつらと衣装は、歌舞伎座の衣裳部屋から借りて持ってこられ<br>
ました。<br>
若し損傷すると何百万円という損害金を払わなければならない<br>
そうです。<br>
<br>
思い出すのは、舞の終わりの方で踊り狂う時、上からはらはらと<br>
雪が舞い落ちてくるシーンがあります。<br>
この雪は、特製の紙で出来ており、大きさや切りかたも違い、<br>
小道具係りで特別に調達してきたものです。<br>
<br>
私はその雪を天井から降らすため、舞台上の梁のような鉄棒に<br>
しがみつき命がけで振りまくのに汗びっしょりでした。<br>
<br>
<b>マザー・テレサの祈りの家を訪問</b><br>
<br>
午後、いよいよマザー・テレサの祈りの家を訪問する時間です。<br>
<br>
その前に、各参加者は日本からプレゼントとして、もう使って<br>
いない衣類を少しずつ持ってきていまいした。<br>
<br>
新品同然のもの、使っていてもきれいにクリーニングしたもの<br>
などを、ホテルの庭で集め、大きなカートンボックスに詰めると<br>
１０何箱かはありました。<br>
<br>
それをお土産にして、テレサの祈りの家（修道院のような所）<br>
を訪ねました。<br>
<br>
マザー・テレサは快く一同を迎え入れてくれ、お礼だといって<br>
イタリアの聖地アッシジの聖フランシスコ神父が小鳥と戯れている<br>
壁掛けをくれました。<br>
<br>
お会いした庭は狭く質素なところですが、そこにピースポール<br>
を立て、一緒に世界平和とインドの天命が完うされんことを英語で<br>
祈りました。<br>
その後、２階の祈りの部屋でシスターたちとお祈りをしました。<br>
<br>
その日は、本当に満ち足りた一日でした。<br>
観光旅行で珍しいところを見て歩くのもいいですが、なにか意義の<br>
ある目的を持って、このようにツアーするのは旅行冥利につきます。<br>
<br>
マザー・テレサにお会いできたのには、<a href="http://www.ryokoguide.com/archives/51334805.html">プロローグ</a>があります。<br>
それはまたの機会にお話します。<br>
<br>
<br>
<br>
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</content:encoded>
</item>
<item rdf:about="http://www.ryokoguide.com/archives/51334805.html">
<title>慈悲深く、がんこなおばあさん、マザー・テレサ</title>
<link>http://www.ryokoguide.com/archives/51334805.html</link>
<description>慈悲深く、がんこなおばあさん、マザー・テレサ

マザー・テレサに合えたのもこんな方法で。

先回、日本から行った７０名が、マザー・テレサにお会いした話を
しました。
それには、前もった準備がありました。

インド・ピースツアーが出発する２ヶ月前、私はセレ...</description>
<dc:creator>hirokame1</dc:creator>
<dc:date>2007-09-12T16:08:10+09:00</dc:date>
<dc:subject>旅行記</dc:subject>
<content:encoded><![CDATA[慈悲深く、がんこなおばあさん、マザー・テレサ<br>
<br>
<b>マザー・テレサに合えたのもこんな方法で。</b><br>
<br>
先回、日本から行った７０名が、マザー・テレサにお会いした話を<br>
しました。<br>
それには、前もった準備がありました。<br>
<br>
インド・ピースツアーが出発する２ヶ月前、私はセレモニー開催と<br>
ピースポール建立の準備のためカルカッタ（コルコタ）へ行きました。<br>
<br>
インド最大の都市カルカッタ（コルコタ）は、２０世紀始めの英国<br>
植民地インドの首都として栄え、独立後も産業・商業の中心地で、<br>
人口約９００万人の都市です。<br>
<br>
初めての都市で右も左も全く不案内です。<br>
来る前に航空会社の友人の友人である貿易商が唯一の頼りでした。<br>
<br>
着いて直ぐその人を訪ね、キリスト教会の神父さんを紹介して<br>
もらいました。<br>
その人からいろいろな人に繋がり、やっと段取りが整いました。<br>
<br>
やれやれと安堵したのも間もなく、何故かわからないがマザー・<br>
テレサのことが頭に浮かんできました。<br>
そうだ彼女はカルカッタ（コルコタ）に住んでいると聞いたことが<br>
あります。<br>
<br>
早速、英語とベンガル語を話せるガイドさんに頼んでマザー・テレサ<br>
の祈りの家へ連れて行ってもらうことにしました。<br>
<br>
ガイドさんが言うのには、彼女は世界中を飛び回っており、あまり<br>
カルカッタには居ることがないと。<br>
<br>
<b>叩けよ、されば開かれん！</b><br>
<br>
兎に角行ってみようと彼を引っ張り出しました。<br>
着いたところは、ぐるりと塀に囲まれた粗末な修道院のようなところ<br>
です。<br>
勝手口のような扉を見つけ、どんどんと叩きました。<br>
<br>
暫くしてシスターとおぼしき少女が顔を出したので、訪問の意図を<br>
言って、日本からマザー・テレサに会うために来たと告げました。<br>
ぜひお会いしたい旨を、強く訴えました。<br>
<br>
数分後、少女がまた顔を出し、先生はお会いするからと言いました。<br>
わあ、なんとラッキィ！飛び上がらんばかりの気持ちです。<br>
<br>
案内してくれた部屋は、四畳半ぐらいのところで、木製の小さな机の<br>
上に書類が数センチほど重ねてありました。<br>
隅には、ロンドンから来たという記者が座っていました。<br>
<br>
挨拶もそこそこ、世界平和の祈りのことやその展開振りを説明<br>
しました。<br>
２ヶ月後に、日本から７０名ほどのピース・ミッションがここを訪れ、<br>
マザーと一緒にぜひお祈りできることを切望していると懸命に口説き<br>
ました。<br>
<br>
マザー・テレサは、その頃カルカッタに居ればお会いしましょうと言って<br>
くれました。<br>
その時感じました。これは私の意向が成さしめたのではなく、みんな神の<br>
み計らいによるものだと。<br>
<br>
横のガイドは感激のしっぱなしです。<br>
こんな機会に何か書いてもらいなさいと促してきたので、マザー・テレサに<br>
こんなことを書いて欲しいと手帳をひろげて差し出しました。<br>
<br>
マザー・テレサは頼んだメッセージは書かず、自分なりの言葉を書いて<br>
返してくれました。<br>
<br>
ああ、何てこの人は、自分なりに意固地なほど強い意志を持った女性<br>
なのだなと強く感じました。<br>
目は優しく笑っているようだが、その奥にとても」厳しいものを実感<br>
しました。<br>
<br>
その後、シスターの案内で、マザー・テレサが運営しているという<br>
ライ病患者が療養している病院へ行きました。<br>
病院といっても設備は粗末で、ベッドはなくコンクリートの上で患者は<br>
寝ていました。<br>
隣の部屋では、職員が水圧の高いホースの水で床を掃除していました。<br>
<br>
ガイドは悲しげに言いました。インドはまだまだ貧しい。今度日本から<br>
メンバーが来られる時は、使い古しの着るものを持って来てもらえれば<br>
どんなに有難いことか。<br>
<br>
ホテルからマザー・テレサの祈りの家へ行くのにタクシーを拾いました。<br>
カルカッタ市内の人ごみの喧騒の中を、乱暴に運転する車の前の席<br>
のシートにしがみついて、やっと降りた時手を見ると、爪の間が真っ黒に<br>
なっていたのに気がつきました<br>
<br>
日本とのあまりの格差に、カルチャーショックを受けました。<br>
<br>
<br>
<br>
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]]>
</content:encoded>
</item>
<item rdf:about="http://www.ryokoguide.com/archives/51320505.html">
<title>現在の台湾の交通と建物</title>
<link>http://www.ryokoguide.com/archives/51320505.html</link>
<description>４０年も前から１００回余りも台湾へ行っていますが、当時を知る者にとって
現在の台湾は、目を見張るような変貌ぶりに驚きを隠せません。
まず交通機関です。

・台湾新幹線開通

かって台南まで快速急行でも３時間半かったのが、新幹線が開通し１時間
一寸でいける...</description>
<dc:creator>hirokame1</dc:creator>
<dc:date>2007-08-10T04:49:59+09:00</dc:date>
<dc:subject>旅行ガイド</dc:subject>
<content:encoded><![CDATA[４０年も前から１００回余りも台湾へ行っていますが、当時を知る者にとって<br>
現在の台湾は、目を見張るような変貌ぶりに驚きを隠せません。<br>
まず交通機関です。<br>
<br>
<b>・台湾新幹線開通</b><br>
<br>
かって台南まで快速急行でも３時間半かったのが、<b>新幹線</b>が開通し１時間<br>
一寸でいけるようになりました。<br>
むかしは車窓からゆっくり移り行く台湾の田舎の風景を眺めながら<br>
車中小姐（女性乗務員）がサービスで窓際に設えたグラスに入れてくれる<br>
葉っぱが浮かんだお茶を楽しみながら、牛肉弁当を頬ばったものでした。<br>
<br>
これまで特急で４時間あまりかかっていた台湾南部にある大都市高雄<br>
（左営）までがたったの１時間半に短縮され、台北から日帰り圏になりました。<br>
<br>
<b>・台北の東西南北を結ぶ路線電車（ＭＲＴ）</b><br>
<br>
台北市内では、何処へ行くにも車しか手段が無かったのが、今は<b>台北</b><b>捷運</b>（<b>ＭＲＴ）</b>という電車が東西南北を隈なく走っており、むかしよく行った<br>
北投温泉まで３０分ほどで行ける様になりました。<br>
<br>
現在では、速くて安くて安全で、しかも快適な乗り物として大好評で、<br>
台北市民の大切な足として大活躍しています。<br>
<br>
<b>・<b>高さ世界一のタワー「台北１０１」</b></b><br>
<br>
新しく豪華なホテルも増え、高層建築が林立しています。<br>
今や台北の新しいランドマークと言われる<b>国際金融センター「台北１０１」</b><br>
は、高さが５０８ｍで１０１階建ての建物です。<br>
<br>
<b>・戦前の日本の匂いを残す台湾</b><br>
<br>
４０年前に始めて行った台湾は、情緒綿々の雰囲気に溢れ、戦前の<br>
日本の故郷に帰ったようで、何とも暖かい匂いがしました。<br>
当時３０歳以上の台湾人はみな日本語が達者でした。<br>
<br>
<b>・台湾神社の跡地にグランドホテル（園山大飯店）</b><br>
<br>
台北の目抜き通り（<b>中山北路</b>）の突き当たりの高台に建つグランドホテル<br>
（<b>園山大飯店</b>）は、独特な中国的建築物で堂々と威容を誇っていますが、<br>
ホテルの裏手にはかって賑わっていた台湾神社の名残がまだ残っていました。<br>
<br>
当時、鳥居の横にあった狛犬は現在園山大飯店の前庭に鎮座して<br>
います。<br>
中山北路は戦前には、宮前通りと呼ばれていたそうです。<br>
<br>
<b>・台湾の靖国神社・国民革命忠烈祠</b><br>
<br>
園山大飯店の東側に、儀仗兵交代のセレモニーで観光客に人気のある<br>
<b>忠烈祠</b>があります。<br>
ここは、台湾護国神社だったのが戦後中国宮殿風に建て替えられ、<br>
<b>国民革命忠烈祠</b>となり、ここには抗日戦や共産党との戦いで戦死した<br>
３０数万人の英霊が祀られています。<br>
<br>
戦前に台湾の各地に創建された神社跡が、忠烈祠として改変された例は<br>
他にも多くあります。<br>
<br>
高雄神社は<b>高雄忠烈祠</b>になり、花連港神社は<b>花連港忠烈祠</b>に、新竹の<br>
桃園神社は<b>桃園懸忠烈祠</b>となっており、鳥居や石段、燈篭などはそのまま<br>
使われているそうです。<br>
<br>
中高年のみなさん元気を出して、頑張りましょう。<br>
<br>
次の記事は、<a href="http://www.ryokoguide.com/archives/51320510.html">&#34083;蒋介石と大陸反抗</a>です。<br>
<br>
<a href="http://blog.livedoor.com/common_theme-129221.html">麗しの島・台湾 - livedoor Blog 共通テーマ</a><object width="320" height="264"><param name="movie" value="http://www.youtube.com/v/DBfciQXO6X4"></param><param name="wmode" value="transparent"></param><embed src="http://www.youtube.com/v/DBfciQXO6X4" type="application/x-shockwave-flash" wmode="transparent" width="320" height="264"></embed></object><object width="200" height="165"><param name="movie" value="http://www.youtube.com/v/BHoWz2TipDk"></param><param name="wmode" value="transparent"></param><embed src="http://www.youtube.com/v/BHoWz2TipDk" type="application/x-shockwave-flash" wmode="transparent" width="200" height="165"></embed></object>]]>
</content:encoded>
</item>
<item rdf:about="http://www.ryokoguide.com/archives/51320510.html">
<title>台湾と蒋介石・国民党政府</title>
<link>http://www.ryokoguide.com/archives/51320510.html</link>
<description>・

かっての台湾は、戦後中国大陸から毛沢東に追われやって来た蒋介石
総統が率いる国民党政府の官僚や軍人が行政を握り、絶対的な権力を
振っていました。

印象的だったのは、街は戒厳令下にあり通りや建物のあちらこちらに
「母忘在呉」（呉に在るを忘れるなかれ...</description>
<dc:creator>hirokame1</dc:creator>
<dc:date>2007-08-09T05:12:46+09:00</dc:date>
<dc:subject>旅行ガイド</dc:subject>
<content:encoded><![CDATA[<b>・<蒋介石と大陸反抗</b><br>
<br>
かっての台湾は、戦後中国大陸から毛沢東に追われやって来た<b>蒋介石</b><br>
総統が率いる国民党政府の官僚や軍人が行政を握り、絶対的な権力を<br>
振っていました。<br>
<br>
印象的だったのは、街は戒厳令下にあり通りや建物のあちらこちらに<br>
「<b>母忘在呉</b>」（呉に在るを忘れるなかれ）と「<b>大陸反抗</b>」というスローガンが<br>
目につきました。<br>
<br>
後で分かったことですが、「母忘在呉」という標語にまつわる面白い話が<br>
あります。<br>
<br>
<b>・臥薪嘗胆と呉越同舟</b><br>
<br>
中国の<b>春秋時代</b>（前７７０年～前４０３年）に長江（揚子江）下流の覇者<br>
<b>呉王闔閭</b>（コウリョ）は、隣の国の<b>越王勾践</b>（コウセン）との戦いに敗れ、<br>
臨終の床に<b>息子の夫差</b>（フサ）を呼んで仇を取るように言い残して亡く<br>
なりました。<br>
<br>
夫差は、仇を討つため常に薪の中に臥して身を苦しめ２年後に越に攻め<br>
込んで越軍を打ち破りました。<br>
<br>
越王勾践は降伏し、やむなく妻の西施（中国四大美人の一人）を夫差に<br>
さしだし、呉の属国となることを誓わせられました。<br>
<br>
越王勾践は、座右に豚の肝をおき、座ったり寝る度に苦い肝を嘗めて、<br>
呉王夫差にたいする復讐を誓いました。<br>
<br>
その後、越王勾践は夫差が他国と戦っている隙をついて、ついに呉国を<br>
攻め、急遽帰ってきた夫差の軍勢を打ち破り、越の国を復興しました。<br>
<br>
これが有名な「<b>臥薪嘗肝</b>」（復讐の志を抱いて長い間艱難辛苦することの<br>
意味）の復讐の物語です。<br>
<br>
また呉と越との抗争にからんで「<b>呉越同舟</b>」（仲の悪い人同士が同じ場所<br>
や境遇に並び立っていること）という言葉も生まれ、現在もよく使われて<br>
います。<br>
<br>
中共から大陸を追われた蒋介石が、いつの日かは必ず中国大陸に<br>
復帰し、中華民国の花を咲かそうとする反抗精神を国民大衆に訴えた<br>
かったのでしょう。<br>
<br>
<b>・蒋介石と独裁政府国民党</b><br>
<br>
私はかって台湾・台北市に拠点を持つ航空会社に勤めていました。<br>
大阪支店のセールスマネージャーだった私は月例の営業会議に出る<br>
ため、その後の旅行会社時代を含め、台湾へは１００回以上は行った<br>
でしょう。<br>
<br>
当時の台湾は、戦後中国大陸からやてきた蒋介石と中華民国国民党<br>
政府の官僚と軍人（<b>外省人</b>という）が行政の実権を握り、絶対的な権力を<br>
振るい戦前から住んでいた台湾人（<b>内省人</b>という）を抑圧していました。<br>
<br>
中高年の皆さん元気を出して、頑張りましょう。<br>
<br>
次の記事は、<a href="http://www.ryokoguide.com/archives/51320510.html">台湾の酒家と北京ダック</a>です。<br>
]]>
</content:encoded>
</item>
<item rdf:about="http://www.ryokoguide.com/archives/51320514.html">
<title>台湾の酒家と北京ダック</title>
<link>http://www.ryokoguide.com/archives/51320514.html</link>
<description>・個室キャバレィ・酒家

ご他聞にもれず、本社の部長クラス以上の幹部や役員はすべて外省人
（大陸からやって来た中国人）によって占められていました。
たまに上司が、私が日本から来たかたといって接待してくれることがありました。

繁華街のチュウチャ（酒家）に...</description>
<dc:creator>hirokame1</dc:creator>
<dc:date>2007-08-08T05:37:50+09:00</dc:date>
<dc:subject>旅行ガイド</dc:subject>
<content:encoded><![CDATA[・<b>個室キャバレィ・酒家</b><br>
<br>
ご他聞にもれず、本社の部長クラス以上の幹部や役員はすべて<b>外省人</b><br>
（大陸からやって来た中国人）によって占められていました。<br>
たまに上司が、私が日本から来たかたといって接待してくれることがありました。<br>
<br>
繁華街のチュウチャ（酒家）に行き、壁で仕切られた個室に入り、中央に<br>
置かれた丸いテーブルに陣取ります。<br>
<br>
左右には、裾を大きく開けたチャイナドレスに身を包んだメイリーシャウ<br>
チェ（美麗小姐、別嬪さん）が侍り、酌をしてくれます。<br>
<br>
“ＣＡＴ航空（当時、勤めていた航空会社）にカンペイ（乾杯）！”<br>
“あなたとわたしは、心と心のお付き合い”<br>
といって、ラオチュ（老酒・紹興酒）やパイカル（白乾。焼酎のように強い酒）<br>
をぐっとあおります。<br>
<br>
酒のアテには西瓜の種がよく出ます。<br>
その種を、歯でパリッと割り、器用に皮をむいて中の実を食べ、皮は<br>
テーブルの上にぺッと吐き出します。<br>
<br>
ジャンケンに似た遊びで席は盛り上がります。<br>
宴もたけなわになると、彼は私に言い聞かせるように、彼が敬愛する<br>
蒋介石総統について話し出しました。<br>
<br>
・<b>怨みに報いるに徳を以ってす</b><br>
<br>
太平洋戦争終結後、蒋総統は日本に対して「<b>以徳報怨</b>」という政策に<br>
基づき最大限の便宜を計らい、多数の日本兵を大陸から無償で復員<br>
させて命を救ったというのです。<br>
自慢げに話す彼の顔は喜色満面です。<br>
<br>
「以徳報怨」、正確には「<b>報怨以徳</b>」といいます。<br>
老子から出た言葉で、「怨みに報いるに徳を以ってす」ということです。<br>
<br>
人間長く生きていると、時には腹立たしい仕打ちを受けたり、裏切られた<br>
ような気持ちになったりすることがあります。<br>
それに対して、ある人は怒りをそのまま相手にぶつけます。<br>
<br>
心の広い優しい人は、怒りをぐっと押し殺して、その場を収めることで<br>
しょう。<br>
しかし、怨みの気持ちは残ります。<br>
<br>
老子に言わせれば、そんな場合、受けた恨みにたいして、「徳」（善行）を<br>
以ってお返しするのが一番好いことだといいます。<br>
<br>
こういう風に、老子の説く「道」を極めた人が多くいれば、この世の人間<br>
関係はスムーズに運び、争いなんかは起こらないでしょう。<br>
台湾について話をしだしたら、ネタはつきません。<br>
<br>
台北本社で仲良くなった営業マンは本省人（台湾で生まれ育った中国人）です。<br>
彼は立派な日本語を話し、そのうち肝胆相照らすほどの仲になりました。<br>
<br>
・<b>生まれて始めての北京ダック料理</b><br>
<br>
ある時、美味しいものを食べに行こうと台北駅に近い線路沿いに長く続く<br>
二階建ての商場にあるレストランへ連れて行ってくれました。<br>
<br>
そこで生まれて始めて、<b>北京ダック</b>というものを食べました。<br>
二人だというのに、こんがり焼き上げたアヒルがまるまる一羽が出て<br>
きます。<br>
目の前でコックが大きな包丁で裁いてくれたパリッとした薄皮を味噌ねぎ<br>
と一緒にクレープで巻いて食べた味は忘れられないものでした。<br>
<br>
こんな美味しいものがこの世にあるのかと感激でした。<br>
その後には、裁いたあとの身と骨をじっくり煮込んだスープがまた格別<br>
でした。<br>
<br>
それからは、台北へ行くと一人でもよくそのレストランへ通ったものでした。<br>
<br>
ご馳走で忘れられないのは、蜂蜜で蒸し煮した中華ハムを、薄切りにした<br>
パンにはさんで食べる<b>湖南料理</b>と綺麗な模様をした甲羅をもつ花蟹の<br>
蒸しものの<b>広東料理</b>はぎっしりつまったカニの身を頬張ると美味しさが<br>
口のなかに華やかに広がります。<br>
<b>台湾料理</b>では、サツマイモを煮込んだ芋粥が最高でした。<br>
<br>
中高年の皆さん元気を出して、頑張りましょう。<br>
<br>
次の記事は、<a href="http://www.ryokoguide.com/archives/51320519.html">台湾の本省人と外省人・二・二・八暴動事件・李登輝</a>です。]]>
</content:encoded>
</item>
<item rdf:about="http://www.ryokoguide.com/archives/51320519.html">
<title>台湾の本省人と外省人・二・ニ・八暴動事件・李登輝前総統</title>
<link>http://www.ryokoguide.com/archives/51320519.html</link>
<description>・本省人と外省人　
　（台湾で生まれ育った中国人と大陸からって来た中国人）

友人は酒が進み饒舌になってくると、私には気を許してくれるのか、声を
低めて国民党政府に対する批判めいた気持ちを漏らすのでした。

本省人である彼は出世コースに乗れない不満がそう...</description>
<dc:creator>hirokame1</dc:creator>
<dc:date>2007-08-07T05:51:19+09:00</dc:date>
<dc:subject>旅行ガイド</dc:subject>
<content:encoded><![CDATA[・<b>本省人と外省人</b>　<br>
　（台湾で生まれ育った中国人と大陸からって来た中国人）<br>
<br>
友人は酒が進み饒舌になってくると、私には気を許してくれるのか、声を<br>
低めて国民党政府に対する批判めいた気持ちを漏らすのでした。<br>
<br>
本省人である彼は出世コースに乗れない不満がそうさせたのでしょうが、<br>
聞いて分かったのですが、実は<b>本省人</b>と<b>外省人</b>の対立の歴史があった<br>
のです。<br>
<br>
１９４５年（昭和２０年）に台湾は日本から中華民国に引き渡されました。<br>
台湾には大陸から国民党政府がやって来ました。<br>
<br>
当初、台湾の人々（本省人）は、これを光復（祖国復帰）として喚起の声を上げましたが、国身党政府の役人や軍人は腐敗しており、宝の山に入り<br>
込んだ盗賊のように略奪し、汚職の限りをつくしていました。<br>
<br>
また物価の高騰、失業の深刻化、治安の悪化などにより、期待は失望へと<br>
変わり、国民党政権に対して極度の不満を募らせていました。<br>
<br>
当時、台湾の人達は“<b>犬（日本人）は去りて、豚（国民党）来る</b>”<br>
（犬は小うるさいが番犬として役にも立つ、豚はただ貪り食って寝るだけ<br>
だ）といって本省人は外省人を揶揄しました。<br>
<br>
・<b>台湾の大暴動・二・二八事件</b><br>
<br>
１９４７年２月２７日、台北でヤミタバコを売っていた女性を国民党政府の<br>
官憲が発見。女性が土下座し、許しを乞うたのにもかかわらず、公道で<br>
その女性を銃剣の柄で殴りつけ、商品と所持金を没収するという事件が<br>
起こりました。<br>
<br>
さらに取締官は、怒りで集まった民衆に対し発砲し、まったく関係のない<br>
見物人を射殺してしまいました。<br>
<br>
これにかねてから不満があった市民の怒りが爆発。翌２８日以降、それに<br>
たいする抗議行動や外省人に対する無差別攻撃、暴動が台湾全島に<br>
拡がりました。<br>
<br>
このとき、本省人はラジオ局を占領し、日本の軍艦マーチを流し、日本語<br>
で「台湾人よ立ち上がれ！」との決起を促す放送を行ったそうです。<br>
<br>
その後、国民党政府による大弾圧が始まり、凄惨な報復に転じました。<br>
日本の統治下で高等教育を受けたエリート層（裁判官、医師、教師、役人）<br>
の多くが逮捕、投獄、拷問され、多数の本省人が虐殺されました。<br>
<br>
このとき発令された戒厳令は４０年後の１９８７年まで継続し、国家安全法<br>
によって言論の自由が制限され、強権による暴力支配は長らく続きました。<br>
<br>
この事件は一般市民の間に密かに語り伝えられ、民主化が実現するのは<br>
１９８８年に李登輝が本省人として始めて総統になってからです。<br>
<br>
・<b>大和魂の人・李登輝</b><br>
<br>
ちなみに<b>李登輝</b>さんは、戦前の京都大学農学部で学び、徴兵で高射砲<br>
部隊へ入営し、見習士官から終戦時は少尉だった人です。<br>
<br>
生涯の師として新渡戸稲造に私淑し、その著書「<b>武士道</b>」に大きな感化を<br>
受け、日本人より日本精神（<b>大和魂</b>）の真髄を体得した人です。<br>
<br>
・<b>映画「非情都市」</b><br>
<br>
１９８８年に公開された候考賢監督の「<b>非情都市</b>」は、二・二八事件を<br>
始めて本格的に描いた劇映画です。<br>
<br>
この映画はヴェネチア国際映画祭で金賞を受賞し、二・二八事件は世界に<br>
知られることになりました。<br>
<br>
お陰でこの二・二・八事件は、自由と民主主義を求める国民的な抵抗運動<br>
として再評価されるに至りました。<br>
<br>
中高年のみなさん元気をだして、頑張ってください。<br>
<br>
次の記事は、<a href="http://www.ryokoguide.com/archives/51320525.html">台湾隋一の温泉地北投温泉</a><br>
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<item rdf:about="http://www.ryokoguide.com/archives/51320525.html">
<title>台湾随一の温泉地</title>
<link>http://www.ryokoguide.com/archives/51320525.html</link>
<description>・台湾の温泉地

私は温泉が大好きです。
台湾は九州ほどの大きさの島ですが、全島に１２０ヶ所ほどの温泉が
点在しています。

・北投温泉

始めて友人に連れて行ってもらった温泉は、台北から車で４０分ほど
郊外にある北投温泉でした。

泉質は少し濁った硫黄...</description>
<dc:creator>hirokame1</dc:creator>
<dc:date>2007-08-06T06:25:35+09:00</dc:date>
<dc:subject>旅行ガイド</dc:subject>
<content:encoded><![CDATA[・<b>台湾の温泉地</b><br>
<br>
私は温泉が大好きです。<br>
台湾は九州ほどの大きさの島ですが、全島に１２０ヶ所ほどの温泉が<br>
点在しています。<br>
<br>
・<b>北投温泉</b><br>
<br>
始めて友人に連れて行ってもらった温泉は、台北から車で４０分ほど<br>
郊外にある北投温泉でした。<br>
<br>
泉質は少し濁った硫黄の入った酸性泉で、慢性関節炎、筋肉痛、皮膚炎<br>
動脈硬化、婦人病、膀胱炎、糖尿病などに効力があるとのことでした<br>
<br>
いまや新北投温泉は、豪華なホテルが建ち並ぶ一大温泉リゾートですが、<br>
当時はいかにも日本の古い温泉郷といった風情のある和式旅館がところ<br>
どころに点在していました。<br>
<br>
着いたところは、「星乃湯」という温泉旅館でした。<br>
日本の家屋と全く同じ造りの建物で、畳敷きの部屋も落ち着きがあり<br>
本当に休まります。<br>
<br>
夜になると、置屋から可愛い小姐（女の子）を呼んでくれ、お酌に侍って<br>
くれました。<br>
<br>
若気の至りか、翌朝まで飲み続け、老酒（紹興酒）のボトルを７本半も<br>
上げてしまいました。<br>
<br>
その頃はまだ公娼制度があり、小姐は夜のお相手もしてくれます。<br>
その後、赤線区域としてますます繁華な装いを増し、立派なホテルも<br>
どんどん建ってきました。<br>
<br>
１９７０年（昭和５０年）から１９８０年頃は、日本からも北投温泉の噂を<br>
聞きつけ、大勢の殿方が群れをなして、北投へ遊びに行くツアーが<br>
企画されました。<br>
あるご婦人から「あなたの会社は売春ツアーを斡旋するのか」と言って<br>
怒鳴り込まれたことがあります。<br>
<br>
その公娼制度も、１９７９年に廃止されました。<br>
<br>
それに関して面白い話があります。<br>
<br>
台湾へ植物採集や昆虫採集に行こうといったツアーを企画したことが<br>
あります。<br>
それに有名な国語学者と東大に在学中の息子さんが参加されました。<br>
参加の理由は、国語ｊ辞書を編纂する時にいろいろな植物名や昆虫名<br>
が出てくるので、実際に見てみたいというのです。<br>
<br>
最終日の前日は、北投での公娼制度が終了する日でした。<br>
学者さんから北投温泉に一泊したいので、手配をして欲しいと頼まれ<br>
ました。<br>
<br>
それは息子さんに、日本にはもうない公娼制度を息子に体験させて<br>
やりたいそうです。<br>
<br>
この謹厳実直な学者先生は、何という粋な親心なんだろうと感心した<br>
次第です。<br>
<br>
後日、成長された息子さんが親父さんの後を継ぎ、テレビの画面で<br>
活躍されている姿を拝見すると微笑みを禁じえませんでした。<br>
<br>
北投温泉で一番古くからある「滝の湯」（古くは松乃湯）という日本の<br>
大衆浴場の原形を留める温泉にも入りました。<br>
<br>
台湾が殖民地時代だった頃は、湯治場として賑わい、昭和天皇が<br>
皇太子時代に入浴したといわれます<br>
<br>
通常、台湾では個室や家族風呂以外の大衆浴場では水着を着けるのが<br>
普通ですが、北投温泉では殆どが日本と同じ裸で入ります。<br>
<br>
中高年のみなさん元気を出して、頑張ってください。<br>
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次の記事は、<a href="http://www.ryokoguide.com/archives/51320527.html">台湾の四大温泉地と秘湯</a>です。<br>
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